設立趣意

「変態」。とかく深い含蓄を持つ言葉である。元々は「他の異なる,変化する」といった程度の意味であったはずが,現在では罵りの言葉や性的ジャンルを表す言葉として広く用いられる。この言葉は我々の日常生活に深く食い込んでおり,我々は様々な事象を表現するためにこの言葉を用いている。

「変態」という言葉が通用するのはもはや日本だけではない。インターネット技術の進歩によって日本の性的なコンテンツは海外に輸出され,日本的な性的コンテンツは「Hentai」としてよく知られるにいたっている。(クールジャパンの推進者たちがそれを期待したのかは知らないが)いまやHentaiはクールなジャパンのフラッグシップである。

 だが我々は,この「変態」という言葉が意味するところを本当に真剣に考えたことがあるだろうか。上で述べたように,この言葉は単なる相違を表す言葉から罵りの言葉へと変質したものである。この移行の背後にあるのは,単に「通常」と離れていることを「悪」と見なす冷徹なまなざしである。「変態」は多数者の目線に立って少数者を迫害する言葉でもある。

 しかし,我々の嗜好はどれほど「通常」のものなのだろうか。人にはみな,人には言えない嗜好がある。「異常」な性癖を持つ人もいるだろうし,一般には受け入れられていないサブカルチャーを好む人もいる。暴力や犯罪に惹かれる人々もいる。自分だけは完全に「通常」であると言い張る人がいればそれこそ異常である。この意味において我々はみな誰しもが程度の差こそあれ「変態」であると言わねばならない。

 現代の社会においては自分の「変態性」を大っぴらにすることは決して好まれない。アニメや漫画は一時期の白眼視から逃れ出て,「通常」の嗜好としての地位を獲得しつつあるように見えるが,その中でも一般的ではない嗜癖を持つ人は,「オタク」などとして,しばしば侮蔑や嫌悪の対象となる。また,性的な志向についても,現在の「通常」である異性愛とは異なる性的志向を持つ人々は有形無形の差別や偏見にさらされている。

 このような現状については,これまで無数の評論家やコメンテーターが多くのことを語ってきた。それらの中に有益な洞察が含まれているのは事実であろう。しかし,その多くが,確実な根拠に基づくものではなく,個人的な体験,ひいては個人の単なる印象を語ったものにすぎないのもまた否定しがたい事実である。そして,一般の人々も(このような言説に対して批判的な人も増えつつあるとはいえ)概してこのような言説を受け入れているように見受けられる。

 他方の学界においても状況は芳しくない。個人の嗜好は人の心の奥底から生まれ出るものである以上,それについて研究を進めることは人の心を対象とする心理学や社会学などのいわゆる「人間諸科学」にとっても重要な課題であるはずである。しかし,これの分野における研究は,「変態性」に関わるトピックを正面から取り上げないか,あるいは取り上げたとしても散発的ないし断片的に検討するにとどまってきた。
 また,「研究倫理」を金科玉条とする近年の傾向もこのような傾向に拍車をかけている。人間諸科学の多くの研究が調査・実験参加者の協力によって成り立つものである以上,参加者に物理的・心理的な侵害が生じないよう最大限配慮すべきであるのは当然である。しかし,参加者への(特に心理的な)侵害を重視することは,社会的にセンシティブな事柄(この典型が「変態性」に関わる事柄である)についての研究を阻害する。つまり,多くの研究者が重視するのは,選択したテーマが「業績になるか」,そしてそれによって「援助や助成を受けられるか」である。そのため,少しでも参加者に侵害や不快の念をもたらすような事柄についての研究が「実施の許可が下りにくい」ということになると,これらの研究は「成果や援助が期待できないテーマ」として敬遠されるようになり,結果としてこの領域での学知の蓄積は大きく阻害されることになる。

 以上のように,変態性という領域は,社会的には誤解が跋扈する領域であり,学術的には不可視な領域に他ならない。

 このような現状は果たして好ましいものであろうか。このような社会や学界の流れに棹さして「変態性」を誤解と不可視の領域へと追いやっておくことが望ましいことであろうか。これらは修辞的な疑問にすぎない。なぜなら我々の答えは明確に「ノー」だからである。
 我々の現代社会は,成員が互いを尊重するであろうという期待によって成り立つ社会である。もちろんこの期待は往々にして裏切られる脆弱なものである。しかしこの期待を欠いて生きていくことはできない。なぜなら,現代社会においては他人を信頼せず,人と隔絶して生きてゆくことは不可能だからである。
 しかしとりわけ「変態性」に関して言えば,我々は,相互の尊重どころか,相互に理解することすらもできていない。我々は次のように問うべきであろう。自分が「通常」だと思っている嗜好は本当に「通常」のものなのか,自分には理解できない嗜好は自分が思うよりも他の人々を惹きつけているのではないか,理解できないと思った嗜好であっても相手の立場からすればそれは完全に「通常」なものであると捉える余地があるのではないか。これらの問いを考え,可能ならばそれに対して答えを与えることは,社会の隣人について,そして何よりもまず自分自身の「変態性」についての理解を深めること,互いを等しく尊重すること,そして究極的にはあらゆる変態間の実質的平等へとつながるはずである。

 以上の趣旨に基づき,我々はここに変態学の創立を宣言し,同学の普及促進を図るため変態学研究所を設立する。

2020年8月1日
変態学研究所 所長
鶯谷の一室にて

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